1件目の病院で処方箋を出して貰ったのをセブンイレブンでFAXし、
2件目の病院で点滴をして、いざ薬局で薬を貰おうと鞄の中を探すも
処方箋が無い!!
薬局で待たなくても良い様にFAXしたのに、処方箋をセブンイレブンに
忘れてきたのです。
普段ならバスで取りに行くんだけど、急いで香川に帰らないと行けないからタクシーでセブンイレブンに行って、薬局までタクシーを使いました。
薬をもらい、電車で家に帰り、喪服や靴、このちゃんを連れて帰る準備をし急いで、PCで時間表を探し、ブログに書き込みをして急いで家を出ました。
長女は京都、次女は東京、私は西宮、妹は香川。
私以外は、みんな結婚しているので縁起の悪い喪服は用意せず帰路についているらしい。
でも私は独り身だから、もしもの時に喪服を送ってくれる相手がいないので縁起が悪いけど持って帰ります。
7回目の手術の後に、実は8回目の手術をしています。
小腸が色んな所で出血をしていて手のつけようがない状態だったそうです。
でも、8回目の手術が終わって、暫くしたら容態も少し良くなったみたいで、少し安定していたので、母も主治医の先生も年は越せると思っていました。
15日の朝
父の容態が急変し、血圧がビックリするぐらい低くなり、糖尿病でもないのに『測定不能の血糖値』私の知り合いの糖尿病の方が血糖値が800になって吐血して入院したのですが、父はそれ以上で測定不能でした…
4人部屋から一人部屋へと移ったのもこの時です、この時点で長くないと病院側は分っていたと思います。
心拍数も弱くなり、血圧も22/15とかになったり…
なので、相当キツい薬が点滴で投与されていました。
私は三ノ宮から香川行きの高速バスに乗り、香川大学附属病院が近い『三木IC』で降り、母に迎えに来てもらい父に会えました。
父に会えた時は血圧は20~30を行ったり来たりで、昏睡状態でした。
私は父親っ子なので、父の最期になるかもしれないので写真をいっぱい撮って、
ずっと父の手を握って父の耳元で『父ちゃん、ニャンポコが来たで!!ニャンポコを置いて逝かんといてよ!!ニャンポコやで!!頑張ってよ!!』など、とにかくずっと話しかけました。
主治医の話では、耳だけが最後まで機能するので、ちゃんと聞こえてますから話しかけてあげてくださいと言われました。
妹も到着し、長女も何とか到着しました。
次女は東京なので16日の朝一の飛行機で帰って来るとの事。
父の姪、その姪の子も来てくれて…PM10:30ぐらいに消化器教授と主治医から話があるとの事で別の部屋に呼ばれた話の内容は
『心臓が止まった時の延命治療をするかどうか』でした。
延命治療とは所謂『心臓マッサージ』です。
私は『心臓マッサージをすると肋骨が折れるし、それが肺に刺さって痛い思いをさせたくないし、何よりマッサージをして1週間でも1年でも
長く生きれるのだったらして貰うけど、数分の延命しか出来ないのだったらして欲しくない』と言いました。
母も長女も同じ考えだったのですが、妹だけは『数分でも生きれるならしてもらう』と泣きながら言いましたがこれ以上しんどい思いをさせたくないやろって宥めました。
血圧が10台になり、私はモニターと父が見える位置を陣取って『とうちゃん、置いていかんといて』と泣きながら手をこれ以上ないぐらい強く握っていました。
母が『忠っさん、私のわがままをずっと聞いてくれてありがとう。ごめんな。』と言った瞬間、モニターの血圧が『0』になったのを私は見て『かーちゃん、ゼロになった…』としか言えませんでした。
後は涙がドンドン出て止まらず座り込んでしまいました
私たちは死に目に会えたけど、死に目に会えなかったのは次女だけで辛かったやろうと思います。
主治医が死亡時間を言います…
『11月15日夜11時39分 御臨終です』と。
ドラマのシーンそのままの光景を涙が止まらないまま見ている自分がいます。
ここまで父が何回も手術しても良くならないし、腸がこんなになるのが解らず、大学病院としての症例も無いらしく、出来たら病理解剖をさせて欲しいと主治医が言ってきたのですが
母は『これ以上、死んでまで主人の体にメスは入れて欲しくないです』と断っていました。
私としては父の事を最期まで知りたかったから病理解剖して欲しかったのですが母が拒んだので敢えて言いませんでした。
病名:すい臓ガン、肺血症、腹腔内膿傷、消化管穿孔
看護士さんが『体を綺麗に拭いてあげてください』と言ってタオルをくれました。
父の骨と皮だけになった細い体を拭いて色んな事を思い出しました。
父は178cmあり、バレーボールをしていて体はガッチリしていて背中は広く厚かった私の自慢の父。
小学生や中学生の時、毎日、父の背中をお風呂で流してあげた事や一緒に海に泳ぎに行って父の背中にくっ付いて泳いだりした事を…
でも、今、目の前にいる父の体は骨と皮だけ…
そう思うと余計に涙が溢れてきました。
死んで病院を出る時は、出口が違うんだけど…
車に乗せて、車が見えなくなるまで主治医と看護士さんは頭をさげてくれてました。
父を自宅に帰宅させ、葬儀屋さんに連絡をします。
1時間ぐらいして『枕飯とお団子』等を持って来てくれました。
死に装束を母と姉妹で着せて、父の体にドライアイスをくっつけます。
この時、夜中の3時過ぎ
私は父の隣りで仮眠を取りましたが…やっぱり殆ど眠れませんでした。
16日、父の通夜です。
父を入棺した時に玄関から『鳩』が入って来て、御棺の上をくるっと回って出て行きました。
で、その後に『すずめ』も入って来て御棺の上をぐるっと回って出て行きました。
父はよくすずめにご飯をあげていたので、すずめもお別れに来たんやろうなぁと母と話をしていました。
私以外の姉妹はみんな2歳の子供を抱いているので、東京からの伯父さん達が泊まる為の掃除やちょっとしたご飯を作ったり買い物を頼まれたりと一人てんてこまい。
葬儀場に入棺した父を連れて行った後は母も色んな打ち合わせで殺気立ってます。
葬儀場の社員さんは母が見当たらないので、長女がいるのに何でか全て私に聞いてきます。
その度に私は走り回ったり、携帯をかけたり…座る余裕もないし、実際座れず、ずっと動いていました。
親戚の方々が来てくれているのでご飯を食べて貰って、私は親戚にお酒を勧めて、来てくれた事にお礼を言って回ります。
そして親戚が帰ると母と姉家族は葬儀場にて泊まります。
17日、父、忠の葬儀です。
葬儀場に来れない方用に自宅前で焼香場を設けます。
で、その自宅は自治会の方(講中)がお手伝いしてくれます。
なので、講中(こうじゅう)の方が来てくれて『すみませんがよろしくお願い致します』とお願いして葬儀場に次女と向かいます。
実家の父の車も母の車もMT車なので、久々に乗りましたがエンストせず乗れました。
母は火葬許可証等の書類を家に忘れたから取ってきて!!と私に言うのであわてて取りに帰ったりバタバタばっかりです
親戚の人には10時に折り詰め弁当を食べて貰っている間も葬儀屋さんは私に色々聞いてきます。
何とか色々こなしながら、親戚の方にお茶を出したり、お茶菓子を出したり。
葬儀中は、母、姉、妹は席に座って貰って、私は葬儀に来てくださった方にお礼を言ってお焼香してもらって…ずっと絶え間なく色んな方が来て下さいました。
葬儀中の家族紹介の時だけ前に出て頭を下げて、また後ろで来て下さった方々にお礼を言ってました。
葬儀が終わって皆さんが出棺で、お見送りで玄関に行く時も『ありがとうございました』とお礼を一人で言っていました。
母が位牌を持ち霊柩車へ、長女が遺影を持ち、次女と私はタクシーに乗り先導します。
長いクラクションを聞いて出発です。
タクシーが先頭で霊柩車、バスや車が連なって、実家の前を通ります。
実家の前でも長いクラクションを鳴らしました。そしてUターンをして火葬場に向います
火葬場に到着し、喪主である母が火をつけるボタンを押さないといけないんです。
私は泣きながら『絶対に押さないといかんの?押さんといて!』と泣きじゃくりました
母に『ピーピー泣かんの!』と怒られてしまいました。
ボタンを押してしまうと父が骨だけになってしまうのを私はしっているから…
母はボタンを押して、来た道とは違う道で葬儀場に戻ります。
私は辛くてジっとしていられないので、子供達をあやしたり、親戚の方々にお茶を出したり動いていました。
時間になったので、火葬場に戻り骨拾いをします。
竹と木の箸で二人で骨を拾います。私は叔父さんと拾いました。かーちゃんとも拾いました。
分骨は、あんまり良くない事だけど…
私はどうしても納骨までは父と一緒にいたいので、私は小さい骨壷に大好きな広い厚い背中の父の背骨をひとつ入れました。
仕上げを済ませ、初七日も済ませ、親戚でお膳を食べます
ここでもお酒を勧めたり、お茶を注いだり、空き瓶をよけて、お茶を出して貰ったり…
動き通しで少ししんどかったけど…しんどいぐらいが辛さを味わう時間がなくてよかったです。
長女家族は京都に帰るので見送って私たちも実家に帰りました。
色んな話を次女と母と私としてて笑ったり、泣いたり…
夜中4時ぐらいまで話をしていました
18日、朝
母は疲れや緊張の糸が切れたみたいによく眠っています。
次女も2歳の子をずっと抱いていて疲れてよく眠っています。
私は、東京の伯父達が泊まった家の布団を押入れにしまいにいき、ご飯を作ったり、掃除をしたり、満中陰志業者が数社
来たのを対応したり、家にお焼香来てくれた方の対応などしていました。
母が起きたのは夕方でした…よっぽど疲れていたのでしょう。
4ヵ月半の父の入院、毎日欠かさず、仕事が終わってから片道60kmある香川大学附属病院に通っていたのだから…
父と母は、本当に相思相愛だったんだなぁ~と思いました。
私にもそんな人が出来れば良いんだけど…
父が死ぬ10日前ぐらいにうわ言で『ニャンポコは?ニャンポコは?』とずっと言っていたそうです。
看護師さんが『ニャンポコさんって誰?』と母に聞いたら母は『娘です』と答えたらしいんだけど…
私は『愛人って言っといてくれたらよかったのにぃ』と笑い話で言いました。
父に最期まで心配させていた私は本当に親不孝者です。
19日~22日
直ぐに帰ると母が淋しいやろうと次女(東京)と私が実家に残って葬儀の後終いを手伝います。
次女の旦那様と義父、義姉と車で葬儀に来て下さったんだけど、母は姉を車で一緒に帰したかったんだけど、
姉はまだ帰りたくなかったので、母に『残って貰うって言ってなー』と頼んだんです。
そしたら母は『そんなん、申し訳なくて言えなん!帰りなさい』って一悶着。
なので、私が悪者になって、お義兄さんに『私だけでは母を手伝うのが心もとないので、姉に助けてもらいたいので、
姉をお借りしてもいいでしょうか?』と聞いて姉に残って貰いました(;・∀・)
出来るだけ母に家にいて貰って、姉と買い物に行ったりしました
その帰り道、自分達が育った町が綺麗に見える峠で町を見て…
『みかんロボ』の『表の顔』
と『裏の顔』
があるのに、初めて気づきました。
私は病院で点滴がずっと出来てなくて四肢の疼痛が酷いので22日に西宮に帰って来ました。
父の事を手術の時から今までずっと心配してくれたブログに来てくれていた皆さん
本当に本当にありがとうございました
父は私がブログをしているのを知らないし、皆さんが応援して下さっていたのを生前は知らなかったけれど、
天国に逝った今は、このブログも皆様の応援も知ったと思います。
父もきっと皆様の応援に天国から感謝していると思います
本当に本当にありがとうございました。
PR